2012年5月7日月曜日

大人の語るいじめ対策がほとんどバカバカしく感じるのはなぜなのか - かまろっく


大人の語るいじめ対策がほとんどバカバカしく感じるのはなぜなのか

はじめに

タイトルの続き。なぜなら、彼らはいじめというものを体験したことも、理解したことも、ほとんどの場合において無いからです。
いじめというものは、多数が少数に、強者が弱者に行われる場合が多いので、当然ながらいじめの理解者というものは、その構造的に少なくならざるをえない。

この記事はしょせん、いじめられた経験のある高校生の一つの意見でしか無いので、「無価値だ」「認識が甘い」などと思ったりしたら、直接非難していただいて構いません。
むしろ、そうしてほしいと思っています。権威らしきものは常に人を盲目にしますし、盲目な認識はいじめにつながりますから。
(この記事では基本的に「学校でのいじめ」について記述しています。私はそれしか経験したことがないからです。高校生で すから。職場とかジェンダーとかその辺りの大人な話題は扱ってませんし、扱える気もありません。読む前にそれをご了承ください)

最近読んだ『「認められたい」の正体』(著:山竹伸二)という本に、ちょっとうまい表現があったので引用します。(読んだといっても読みかけですが)

 仲間の承認を得るために自分の本音(ありのままの自分)を抑え、仲間の言動に同調した態度をとり続ける若者は少なくない。仲間の間で成立するコミュニケーションにおいて、リーダー格の人間の気分次第で変化する暗黙のルールを敏感に察知し、場の空気を読み取りつつ、絶えず仲間が自分に求めている言動を外さないように気を遣っている。
 このようなコミュニケーションは「仲間であることを確認(承認)しあうゲーム」とも言い得るが、しかしその証は明確な役割や目的によるものではなく、空虚なものでしかない。価値のある行為で認められるわけでも、愛情や共感によって認め合うわけでもない。それは場の空気に左右される中身の無い承認であり、以下、このような承認をめぐるコミュニケーションのことを、� �空虚な承認ゲーム」と呼ぶことにしよう。

「認められたい」の正体』(著:山竹伸二) - 第1章「認められたい」の暴走 - 家族の「空虚な承認ゲーム」

学校で集団を形成しているふわふわした人たち(例:近くの机に固まって、誰かがちょっと普通から外れた動作をしたら、離れた場所でクスクス笑っているような人)は、この空虚な承認ゲームの加害者かつ被害者であり、大抵こういう承認に飢えた人たちが、いわゆる「いじめ」というものを行うように思います。

また違った場合もあると思いますが、現代によくあるいじめは、暴力的というか、直接いじめの加害者が被害者に対して手を出す(肉体的な暴力によるいじめのこと)ことはそこまで多くないというのが、個人的な経験で感じたことです。
なぜなら、直接手を出すと、いじめがはっきりと「いじめ」として認識されてしまうからです。現代の承認不安からいじめをしてしまう若者は、大方において、そこまではや� ��ない。いじめがはっきりと認知されると、個人は集団に責任を負わせてしまい、承認を得づらくなる。だから、それでもいじめをする人たちは、彼らの中で何らかの正当化や自己弁護による「これはいじめではない(もしくは、これは『いじめ』に当たらない)」という認識を作り出して、程度を低くし、対象を卑下しながら、程度をさぐりさぐりいじめを行う。

「これはいじめではない、集団に迎え入れようとしているだけだ」
「相手も面白がっているだろう」
「この程度がいじめのはずがない」
「こいつ(いじめの対象)はこういう奴だから、この程度のことはされてもおかしくない」

このような言い訳を持たない限り、彼らはいじめを行いません。
なぜなら、「いじめは悪いこと」という暗黙の了解のよう� ��ものは、誰だって分かっているからです。だから彼らも、どこかでそういう認識をごまかしながら人をいじめている。
その認識から目を背けるための、彼らにとって格好の素材が、まさに上記の「空虚な承認ゲーム」です。

承認ゲームに参加しない人たちは攻撃されます。いろいろな理由はありますが、大方は「空虚な承認の正当化」のために、承認を渇望する人たちは、空虚な承認ゲームへの不参加者を否定する行為をします。ゲームのメンバーの中で同じ認識を持ち寄り、「あいつはああいう奴だ」とレッテル貼りをしている間はまだよくある事ですが、それを本人の近くで聞こえるように言ったり、手を出すようになると、ついにそれはいじめになります。

私は「いじめ」というものに対して、大体こういった認識を� ��っています。

よく聞く「いじめられる側にも原因がある」という説について思うこと

この意見は根本的には正しいし、かつ完璧に間違えています。
いじめられる側にも原因があります。それ自体は間違っていません。しかしその原因が「正当な原因である」とともすれば言いかねないのが、こういった説を支持する人たちの恐ろしいところです。